びるの
ドリーム・サーフィン
1. バリニーズ・ドリームをかなえた男


まず、第一回目は、オレの尊敬する男「キングコング」こと、Ketut Kasih(カトゥ カシー)のサクセスストーリーだ。こんなバリニーズもいるってこと、知ってくれ。そして、ヤツの生き様にみんなが少しでも共鳴してくれたら、オレは嬉しい。



【キングコングと呼ばれた男】

 カシーは現在42歳だ。歳より上に見えるバリニーズが多い中、カシーはとても若く見える。まるで、内側からふつふつと湧いてくるバイタリティが見えるようだ。彼と話をするとすぐ判るが、他のバリニーズのようなおっとりしたところがほとんどない。本人も「自分はバリニーズというより、国際人だ」と言っている。本当にそんな感じだ。

 16歳の時、彼はクタでサーフィンをしている外国人を見た。かっこいいと思い、サーフィンの世界がとても華やかに見えた。そんなサーフィンの世界に憧れを抱いた彼は、自分もサーフィンをやりたいと思ったが、なんせ1974〜5年頃の話だ。バリにはサーフショップなどなかった。もちろん、ボードなどどこにも売っていなかった。そこで彼はハワイから来ていたアメリカ人にボードを借りて、サーフィンを始めたんだ。想像つくかい? 今ではクタのそこここにカラフルなボードがごろごろしているというのに、当時はボードひとつなく、もちろんサーファーの数も今の何十分の一、いや何百分の一しかいなかったんだぜ。カシーはそんな状況でもサーフィンにはまった。楽しくて楽しくて仕方がなかったと言う。でも、今のようにサーフィン雑誌やハウツー本、ビデオがあるわけでもなく、先生がいるわけでもない。友達のアメリカ人を見ようみまねで勉強した。つまり、独学だ。どうやったら波に乗れるのか、どうやったらコケちまうのか、自分の身体と体験だけが頼りだった。そんな時代だった。

 だけど、このサーフィンは彼にいろいろな事を教えてくれた。サーフィンがきっかけになって外国人の友達もたくさん出来た。もちろん、日本人もだ。この日本の友人たちが彼に「キングコング」というあだ名をつけたんだ。キングコングのようにガタイが良かったかららしい。カシーの人となりやハングリー精神に共鳴したこの日本の友人たちは、カシーに日本という国を体験してもらうためにカンパを出し合った。そのお金でチケットを買ってカシーにプレゼントしたんだ。こうして、カシーは初めて外国というものを体験することが出来た。18歳の時だった。


【日本での貴重な体験】

 日本に行ったカシーは、約1ヶ月の滞在中、いろいろなことを学んだ。
「びっくりすることだらけだったよ。日本という国はすでに先進国になっているにもかかわらず、道端で働く道路工事の人たちでさえ真剣に働いているんだ。バリとは違う。だらだらしていないんだよ。僕はこの道路工事の人たちが暑い中、汗を流しながら働く姿を見た時に、日本がアジアの中でいちばん最初に発展した訳がわかったような気がしたんだ」
 道路工事の人たちから日本の経済成長理由を推し量る事の出来るカシー、キミだってすごいとオレは思うよ。

「日本人はやさしくて礼儀正しいよ。僕は日本という国も日本人も大好きだな。最初の日本滞在でカルチャーショックを受けたんだよ。友達の家に遊びに行った時さ。僕がその家に着くと、おばあさんが玄関まで迎えに出てきてくれたんだ。彼女は僕の方に向って座ったと思ったら、今度はなんと床にキスするくらい頭をさげたんだ!! これには本当にびっくりしたよ。この時のことは今でもはっきり覚えてる。忘れられないよ。日本人はなんて礼儀正しいんだ。この時、僕はとても感動したんだ」

 日本の滞在経験から、いろいろなことを吸収したカシー。彼はその後もどんどんステップアップしていったんだ。


【ビジネスの始まり】

 日本から帰ったカシーは、相変わらずサーフィンに熱中していた。自分で作った膝丈のボードショーツをはき、クタの波に乗っていた。地元の友人たちは彼のこのボードショーツに目をつけた。
「それ、どこで買ったんだ?」
「どこにも売ってないよ。僕が自分で作ったんだ」
 こうして、彼のボードショーツを欲しがる人がひとり増え、ふたり増えしてどんどん広がっていったんだ。そこへやって来たのが、現在バリバレルという有名なサーフショップを経営しているカトゥ メンダ。メンダは自分の新しいサーフショップにカシーのボードショーツを置きたがった。カシーはメンダの店にボードショーツを卸すことになり、こうして1978年にビジネスの第一歩を踏み出したってわけさ。ブランド名は、もちろん「キングコング」。

 そして1985年、オーストラリア人の現夫人と結婚。夫人はファッション好きな人なので、それ以降のカシーの商品はどんどんファッショナブルになっていったんだ。ただし、この時点ではまだまだ「サーフィンをしながらのビジネス」だった。


【予想外の大事故】

 カシーの生活は、1989年、ハングライダーの大事故で大きく変った。ハングライダーで飛行中に思わぬアクシデントで墜落。下半身不随になってしまったんだ。3ヶ月半もの間、下半身がまったく動かなかったそうだ。普通ならここでがっくりきてしまうだろう。生きる意欲をなくしてしまう人も多い筈だ。だが彼のバイタリティとポジティブ・シンキングは、この悪夢をさらなるステップアップへの踏み台へと変えたんだ。

「どうにか歩くことは出来るまでに快復したものの、走ることは出来なくなってしまった。もちろん、サーフィンもね。でももし、あの時事故っていなかったら、僕はいまだにサーフィンばかりしてビジネスは二の次になっていたに違いないよ。あれは僕にとって大きなターニングポイントだったんだ」


【ビジネスの発展】
 カシーのそんなポジティブな考え方が、神様に届いたのだろうか。翌年1990年には、オーストラリア人の友達が彼の元にクイックシルバーのライセンス契約の話を持ってきたんだ。この契約のために、彼はオーストラリアへ飛んだ。

「オーストラリアのクイックシルバーで研修したんだ。ここで初めて、本当のビジネスというものを学んだんだよ。まず、契約するということはどういうことなのか、契約の仕方から、ミーティングのやり方など、いわゆるビジネスのハウツーをたくさん学ばせてもらったんだ。それからさらに、アメリカのクイックシルバーにも行ったんだ」

 彼の話を聞いていると、自分で実際に体験するということがいかに重要であるかというのがわかる。ただし、体験してもそこからどれだけのものを吸収するかというのは、本人次第だけどね。

 バリに帰ったカシーは、本格的なビジネスに本腰を入れ始めた。今やバリのサーフィン業界では老舗的存在になっているクイックシルバーだけど、これはカシーの努力とビジネスセンスの賜物であると言っても過言ではないだろう。


【新しい展開】

 今から3年前、1997年になると、今度はアメリカのボルコム社からライセンス契約の話がきた。当時のボルコム社は、まだまだ小さな目立たない存在だったんだけど、カシーは直感で「これはイケる」と思ったという。調べてみると案の定、創立して7年たっている基礎のしっかりした会社だった。クイックシルバーは、カシーが契約する時すでにオーストラリアでは大きな会社だった。つまり、会社としてもブランドとしても出来上がっていたんだ。このクイックシルバーとのビジネスで得たノウハウを新しいボルコムにぶつけてみたい・・・ビジネスマンとしての当然の望みだろう。

 さて、ボルコムにニューエナジーとダイナミックさを感じたカシーは、すぐにライセンス契約をした。そして、この3年間、文字通りボルコムと一緒に成長してきたんだ。カシーは、当時すでにジャラン・レギャン(ピーナッツクラブの隣)に「ジャングル・サーフ」というサーフショップを構えていた。その他に「ドリームランド」など全部で6店舗の幅広いビジネス展開を見せていた。ボルコムとの契約を期に、カシーは更に世界で初めてのボルコム・ショップをクタスクエアにオープンした。当時、名もないボルコムの直営店をいきなりオープンさせるのは、大きな賭だったと言う。ところがこれが大成功。バリに集まる外国人にも一気にボルコムの名前が浸透していったんだ。

 アメリカのボルコム社もこの3年間で急成長した。サーフィンだけにとどまらず、スノーボード、スケートボード、音楽の各分野でスポンサーシップを発揮した。例えばこうだ。まだ売れていないけれど、音楽性に優れた有望なバンドがいたとしよう。ボルコム社は彼らの元へ行き、スポンサー契約をする。そしてそのバンドにレコーディングのチャンスを与えたり、プロモーション活動を提供するんだ。バンドが成長すれば、ボルコムも成長する。そうやって各方面でどんどんボルコムの名前を浸透させ、今では業界でも大手にのしあがってきている。特に日本での人気はすごいよね。でも、今ボルコムのTシャツを着ている人たちだって、3年前はボルコムの名前すら知らなかっただろう? そんなところからも、この会社がどれだけ急成長したかわかる筈だ。このボルコムの成長の一翼を担っているのが、我らがキングコングなんだ。


【ボルコム・サーフィン大会】

 オレがカシーを尊敬する理由のひとつに「若手の育成」っていうのがある。彼は自分が若いころに得られなかった「身近な大人」からのサーフィン技術やビジネスの方法などのアドバイスを、今の若い人に与えたいと思っている。自分が苦労して独学で学んだことを惜しげもなく、若い世代に伝えようとしているんだ。また、そうすることによって、自分が若いころ親切にしてくれた人たちへの恩返しにもなると思っているんだ。

 その一環として、彼が主催している「ボルコム・サーフィン大会」がある。普通、バリのサーフィン大会というのは、外国からたくさんのサーファーが集まり、1年に1回行われるものが多い。ところが、この「ボルコム・サーフィン大会」は、これらの大会とは一線を画すポジションを保っているんだ。まず、この大会は1ヶ月に1回行われる。しかも、対象は18歳以下のインドネシア人に限定されている。毎月のランキングをとり、1年間のトータルで最優秀者が決められるんだ。上位に入った者には、もちろんスポンサーシップが与えられる。バリに限らずローカルの若手にとって、これはかなり良い刺激とチャンスになっているんだよ。そのうえ、この大会は毎月違うポイントで行われる。雨が降っても、波が悪くても、その月に決められた場所で必ず開催されるんだ。インドネシアのサーファーたちは、国内の大会で強くても、海外遠征に行くと負けてしまう。インドネシアの気候と波の状態が、他の国と同じとは限らないからだ。寒さや悪い波にも勝たなくてはいけない。だから、わざと悪条件の下で大会を行って、若手に慣れてもらおうという意図があるんだよ。

 カシーは今後も若手の育成に力を入れていきたいと言っている。
「人間いつかは死ぬんだ。お金をため込んだってつまらないよ。それよりも、若い人たちにどんどんチャンスを与えたいんだ。僕は、バリのサーフィン業界がもっともっと発展するための手伝いをしたいと思ってる。それにね、インドネシアにはまだまだ貧しい地域がたくさんあるだろう? そういった地域に工場をつくるなりなんなりすれば、インドネシア全体が発展するための手助けにもなるだろう? そうやって、僕はこのビジネスで得たお金を若手や地元に還元していきたいんだ」

 彼は今、ジャラン・パンタイクタに「ニュー・ジャングルサーフ」というサーフショップもオープン予定だ。
「クタスクエアからハードロック・カフェにかけては人でいっぱいなのに、その流れがジャラン・パンタイクタにきていないだろう?本来ならあそこはもっともっと活性化出来る場所なんだ。ただ、バリの人達はその方法を知らないだけ。僕の店が成功すれば、少しは流れも変わるだろうし、どうやったら成功するのかというのをみんなに知ってもらいたいんだ」


 男として、サーファーとして、バリ人として、国際人として、ビジネスマンとして、まったくどこまでかっこいい男なんだ、カシーってヤツは。