8. 執着と循環
好きなことで夢中になっているとき、寝る時間や食べる時間を削るのが常だが、ああいう時ってどうなんでしょうね。非常に満足しているとそういった基本欲求があまり起こらないというけれど確かにそのようだ。私はインドネシアにいる時に公演等のための曲を作っていることも多いのだが、この間なんて昼の1時からはじめて、夜を過ぎ次の日の昼も過ぎ午後3時になっていた。つまり24時間以上そのままただ作り続けていたのだ。あ〜驚いた。よく一緒に仕事をする人たちからは異常な集中力と言われるが本人はいたって充実。すっきりしている。達成感に惚れ惚れしたりもする。もう死んでもいいとさえ思っている。
この間はじめてインドネシアでスリに遭った。現金4万円ほど入ったお財布を見事な連携プレーで取られたのだが、すられている時予感はあった。だが、この状況から早く抜け出した方が安全と考え無視して前進し、抜け出したらバックを切られてお財布がなくなっていた。そこは多くのスリグループがいて、とても危ないといわれている地域で、現地人でさえかなり気をつけて歩く場所だが、いつものようにあまり気をつけずに舞台の備品を購入するために出かけたときのことだった。「スリグループも、いかに成功するようにと試行錯誤して頑張ってるのだ、私も今度の公演成功するように頑張らねば」と改めて思い、すぐに帰宅し、クレジットカードだけ電話をして止め、すぐ作曲仕事に入った。不思議と悔しいという気もなかった。それよりも早く仕事がしたかった。作業に入ったらもうそのことすら忘れていた。

好きなことをするというのはそれだけでものすごいパワーがある。すべての嫌なことをオフにしてしまうような力がある。そのときに自分が夢中になれるものをもつといい。何故なら夢中になっていると悩みや問題は何もしていないのに何故か解決されることがあるからだ。インドネシア人は「神が処置するから神に任せればいいよ」というような表現をすることがある。苦しいとき、大変なとき、そう言って慰めるのだが、これ以上思い悩まずにもう普通に生活しようじゃないか、という感じだ。悩みの呪縛から逃れた方が確かに解決は早くなる。
シンガポールにいたときこんなことがあった。友人達と外で食事をした帰りに屋台でお茶を飲んでいたときのことだ。そこに安物のキーホルダーを売っている貧しそうな少年が私たちのテーブルに近づいてきた。これは寄付なのだ。寄付をくれた人にそのキーホルダーをくれる、いわば赤い羽根募金のようなものだが、しかしこれが結構怪しいらしい。貧しい子供への学費育成募金らしいが、嘘の組織だの色々噂はあるらしい。そのときに同席してた友人シンガポール人のイスラム教信仰者Aはサッとお金を少年に渡した。その友人Rはその少年が去ったあとにこう言った。「なんで寄付なんかするの?あれは騙してるって話じゃないか。育成募金なんて言ってるけど僕は絶対あれには寄付なんてしないよ」そうしたらAはきっぱりとこう言った。
「自分はあの少年にお金を渡したんだ。彼がそのお金をどうしようとそれはもう僕たちの範疇ではないよ。お金を渡したらもう自分のお金ではないのだから。お金をあげるというのは支配ではないのだからね」。
これは前大統領スハルト政権のときの一件を思い出させる。スハルトが世界からの多額な借金の用途を色々と突かれていたときに、もらったお金をどう使おうが私インドネシアの勝手じゃないか、黙っててくれないか?というような、もちろんもっとソフトな表現だったが、そのような主旨のことを言った。これには全世界ひっくり返ったが、そうだろうな、と私は思った。私の周りのインドネシア人たちも同じようなことを言うのを何度か聞いたことがある。確かに助けられたあとにも大きな顔でずっと干渉されるのは嫌なものだ。だったら助けないでおくれ、とさえ言いたくもなるだろう。
あげる側からみた場合、あげた物が自分の手から離れてもそこに自分からという意識を持ち続ける人と、手を離れた瞬間に(または手の中にある時でさえ)自分のものという意識のない人の差はある。どちらがいいかは明らかだ。ちなみにシンガポールのそのAは今では成功して素晴らしい地位にいる。堅実なRはその後結婚して小さなアパートで地味な生活を送っている。面白いことに、執着心のない人の方が色々なものが巡って来て優雅に生きている。反対に執着心の強い人間が生き生きと成功しているのをほとんど見たことがない。執着するというのは愛がないからだとよく分析される。循環を作るためには物にも気持ちにも執着してはいけないし、自分の手から離れた瞬間に気持ちよく忘れなければいけない。だからこそその瞬間瞬間で感じるべきことを身体中で体感することが大切だし、愛し愛されることが大事なのだ。何にも執着されない心というのは本当に豊かなものだ。しかしこれは何にもこだわらないというのとは違う。 |
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